過ぎし日
静蘭は嘆息した。しくじった、と。
まさか風邪をひくなんて思ってもみなかった。これでは給料が手に入らない。
そうすると秀麗が困ることになる。それなのに当の本人ときたら"絶対安静にして寝ていなさいっ!!"と言ってご丁寧に外から部屋に鍵をかけていったのだ。
「・・・・・・・・だらしがないな、私も」
ふと思い出すのは妹が風邪を引いたときのことだ。
たくさんの医師や女官に囲まれていた。彼女は熱に潤んだ瞳で当時の清苑公子を見ると微笑んだのだ。
夜に忍び込んで看病してやった覚えもある。
「兄上・・・・」
「大丈夫か、雪花」
「はい」
冷たい氷を削り糖蜜をかけ、口に運んでやれば彼女は嬉しそうな顔をした。
「兄上、ありがとうございます。すみません、兄上にこんなことを・・・・」
「いや、私がしたくしてしているのだから」
雪花は熱がさがると嬉しそうに笑って清苑にそっと口付けた。頬に、だが・・・・・・・
「雪花・・・・・・・」
熱にうなされながら彼は眼を閉じた。
「えっ静蘭様が?」
「あぁ。まったく体は丈夫だと思ったんだけどね」
楸瑛の言葉に蘭華は衝撃を受けたように固まった。楸瑛は茶目っ気たっぷりに片目をつぶってみせる。
「実は邵可様に頼んであるんだ。行っておいで、兄の看病をしたいんだろう?」
「でも私は・・・主上のお世話もありますし・・・・・・・」
「大丈夫。私たちでなんとかしておくから。夜中、秀麗殿が寝たときに行っておいで。邵可殿が合図をしてくれるよ」
蘭華は楸瑛に感謝した。
そして真夜中、蘭華は邵可に導かれて静蘭の眠る部屋へと入った。
「まぁ熱がひどく高い・・・・あの、邵可様・・・・・氷を削ったものに糖蜜をかけたものを用意してくださいますか。あとは冷たいお水と手ぬぐいを」
「わかった。すぐに持ってくるよ」
「はい」
邵可が出て行って蘭華はそっと兄の頬に触れた。唇はかさかさに乾いている。
「お辛いでしょうに・・・・・・・」
「ん・・・・・」
静蘭が眼を開ける。蘭華はハッとして息を潜めた。
「雪花・・・・・何故・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あぁそうか、これはまだ・・ゆ・・・・・・・め」
「そう、夢ですわ兄上。ゆっくりとお眠りください。次に目を覚まされる時は熱も下がっていますわ」
「雪花、今度は私が看病されるとはな・・・・・・」
「えっ?」
「前に一度、部屋に忍び込んでお前を看病したことがあっただろう?今度は私の番だな」
「・・・・・・・えぇそうですわね・・・・・・・兄上、時が経つのは早いものですね。私はもう成長してしまいました」
「そうだな」
「・・・・・・・・あの日々はもう過ぎ去ってしまった日ですわ・・・・・もう過去のことです。兄上・・・・・・」
ふと蘭華はあることを思い出した。
「もうきっとあなたは約束もお忘れになっているのでしょうね」
「約束・・・・・・・?」
「桜の木の下であなたが言ったことですわ」
静蘭は瞳をさまよわせた。過去のことを思い出そうとしたのだ。
「あぁそうだ・・・・・・・・私は、雪花・・・・・・お前を迎えに行くと言ったのだったな・・・・・お前を一人の男として迎えに行くと・・・」
「いまでもお待ちしておりますわ、兄上。でも・・・・・・」
きっとあなたは来ないでしょう。
蘭華は胸のうちでそう言った。そして私ももう既にあなたとは道をたがえました・・・・・
と邵可がそっと氷を持ってきた。蘭華は小声で礼を言う。
邵可がいなくなると蘭華はさじで氷をすくい取り、静蘭の口元に持っていった。
「兄上、氷を削ったものですわ。召し上がってください」
ふと静蘭の手が蘭華の頭を抑えそして引き寄せた。蘭華の瞳が丸くなるうちに蘭華は静蘭と口付けていた。
「私はこちらからもらいたい・・・・・」
「ああああ、兄上!」
「雪花・・・・・・何故ここに」
静蘭ははっきりとした意識を持っていた。蘭華は顔を赤くして静蘭から離れようとする。
「私の質問に答えるんだ」
「楸瑛からあなたが風邪を引いたと聞いて・・・・・・それで心配で・・・・・・・」
語尾はだんだん小さくなっていく。蘭華は視線を下に落とした。静蘭は溜息をつく。
「うつらせたらどうするつもりだ・・・・」
「・・・・・・・兄上が看病してくださるのでしょう?」
「宮廷に忍び込めというのか」
「あら、昔私の部屋に忍び込んだのは誰でしたか?」
兄妹の攻防は少しずつ激しいものになっていく。蘭華は涙ぐんでいた。
「わかった・・・・私が悪かったから、泣くな・・・・雪花」
「兄上・・・・」
「おいで、雪花」
静蘭の腕の中に蘭華はおさまる。静蘭は蘭華の髪を撫でるとそと口付けた。
蘭華はびっくりしたような目で静蘭を見る。
「雪花、私は約束を違えるつもりはない。必ず・・・・・迎えに行く」
「兄上・・・・・」
「だから・・・いま少し待っていてくれないか?」
「はい・・・・・必ず」
蘭華はその後静蘭に氷を与えていた。
甘い糖蜜をかけたそれは二人の過ぎた時間を確実に取り戻させていた。
「兄上」
「うん?」
「はやく風邪を治されてくださいね。じゃないと秀麗様が心配なさりますわ」
「あぁ・・・・・・」
朝が来る前に蘭華はそっと忍び出て行った。
静蘭は手の中に残された蘭華の髪留めにふれた。
「・・・・・・雪花・・・・・・・」
そっとそれに口付けを落とすと静蘭はまた眠りについた。
翌日秀麗の声で目覚めることを少しばかり期待しながら。