春、花降る夜桜の下で
桜が舞っていた。月明かりの下、暗い庭に舞う花びらが織り成す光景は幻想的なものだった。太裳は薄桃色の花びらをそっと指先で摘み取った。
ふと庭にある桜の木へと目が向く。
一人の少女が立っていた。
美しい真紅の髪に白磁の肌。見るものを引き寄せて放さない美しさがあった。
「誰ですか?」
太裳はそう問いかけていた。
少女が振り向く。瞳の色がわかった。
瞳も真紅だった。
少女は真っ直ぐに太裳の紫苑の瞳を見る。
「すみません」
少女の声は鈴を振るように聞こえた。
少女は小首をかしげて言う。
「あまりに桜が綺麗に咲いていたので無断で入ってしまいました」
「なるほど。いえ怒っていませんよ」
太裳も庭に降りる。
少女の傍らに立つと同じように桜を見上げた。
今が満開の桜。風に吹かれて花びらが一枚、また一枚と舞い落ちていく。
「綺麗ですね」
「えぇ」
二人はしばらく無言で桜に見入っていた。
「今夜はありがとうございました。無断で入ってしまったのに怒りもせず」
「いえ。また・・・いらしてくださいますか?」
「・・・・・・・あなたがよければ」
太裳が微笑むと彼女も微笑み、そしていきなり姿を消した。
太裳はあたりを見回すがどこにもいない。まるで蒸発してしまったかのようだ。
「・・・・・・・いったい」
太裳はふと自分の足元、つまりあの少女が立っていた場所に桜の枝があることに気がついた。
それを手に取ると枝はさらさらと崩れて行った。
翌日、彼女はまたいつの間にか庭にいた。
太裳は何も言わず彼女の隣にたつ。
「・・・・・・名前を教えてはもらえませんか?」
「名前・・・・」
太裳が言うと彼女は困った顔をした。
「名前、ないんです。私は存在していないはずの人間だから」
「・・・・・」
「この桜、綺麗ですね。きっと大事にされているんですね・・・・・・こういう桜には名前があるんです。育ててくれた人の思いの形が。自然に咲く桜にもあるんですよ、名前。でも私にはないんです。いた場所から連れてこられて私は名前を忘れたんです。私は忘れられた桜だから」
「・・・・・・・私が名前をつけてはいけませんか」
「あなたが?」
「はい」
少女は嬉しそうな顔をした。
「はい!」
「では・・・・・・・・・・」
「・・・」
少女はうなずいて太裳を見上げた。
「ありがとう!」
「いいえ・・・・」
「あなたのお名前も教えてください・・・・私に名をつけたあなたが私の主です」
「太裳と申します」
「太裳・・・・・」
は太裳の名を繰り返し呟いた。
そして笑顔で太裳を見上げる。
「綺麗な名ですね」
「ほどではありませんよ」
「自分でつけたのに」
二人は顔を見合わせるとクスクスと笑った。
翌日もその翌日も彼女は同じ時間に庭へと姿を見せた。
太裳はいつの間にかが好きになっていた。
「」
「はい」
「・・・・・・・・あなたが好きです」
そう言うとは驚いたような顔をして太裳を凝視した。
太裳はいきなりすぎただろうかと少し慌てる。
が、の顔を見て思い直した。彼女は微笑んでいたのだ。
「私も、太裳のことが好きです」
はそう言ったあと悲しそうに目をふせた。
「もっとはやくあなたに出会えていればよかった。でも私は後悔なんかしていません」
「?」
「もう私が宿る桜は枯れてしまいます。太裳、どうか・・・・どうかこの桜を大事にしてあげてください。私の変わりに」
「どこへ・・・・・」
「私はもう消えてしまいます。あなたに会えてよかった・・・・・・ありがとうございます、太裳」
「?!」
太裳の伸ばした手は彼女の体をすり抜けた。
桜の花びらが太裳を包み込みように舞い、そして空に散っていった。
太裳はしばらく呆然としたあとどこかへ向かって走り出した。
「!」
着いた場所は古びた寺。
なんとなくそこにがいるような気がしたのだ。
寺の中を太裳は歩き回る。の名を呼びながら。
やがてその桜の木を見つけた。
茶色に枯れていた。葉も花もついてなく、一目でそれがもう死んでいることがわかった。
太裳は桜の木に近寄って行った。
「・・・・・」
太裳は桜の木に触れた。そして幹に額を当て涙を流す。
「何故・・・・・・何故もっと早く言ってくれなかったのですか・・・・・・・どんなことをしてでもあなたを助けたのに」
太裳の涙は桜の幹を伝って地に吸い込まれて行った。
「あなたともっといたかった・・・・・・」
どこからか桜の花びらがひらひらと落ちていった。
それは月明かりの下ゆっくりと太裳の足元に落ちていったのであった。