横笛
「昌浩の笛の音は綺麗ね」「ありがとう」
ふと昌浩は彰子に言われた言葉で昔のことを思い出した。
"昌浩の笛の音は優しいのよ。全然下手なんかじゃないわ"
「・・・・・・・・・」
「えっ?」
「ううん、なんでもない」
彰子は不思議そうに昌浩を見ていた。昌浩の傍らで眼を閉じていた物の怪がそっと昌浩の顔を見た。
彰子が知るはずもない。彼女のことを・・・・・・ちなみに物の怪は知っている。昌浩が見えていない間もそばにいたのだから。
美しい蘭の花の如く、凛と咲き誇った姫のことは昌浩、物の怪、晴明、神将たちしか知らない。
それは昌浩が元服する前のことだった。物の怪と出会う直前のことである。
昌浩が笛の稽古から帰ってくる途中のことであった。ある一軒の邸の前を通ったときである。
「姫宮様、あんまりお外をごらんになられては殿方にお顔を」
「御簾ごしに会ったかたと結婚なんてできないわ。私は自分で好きな人を見つけたいの」
そんな会話が聞こえてきた。そっと門の中から中を覗いてみて、そして心臓が止まりそうな思いがした。
例えるのならば気高い蘭の花。つややかな黒髪、真っ赤な唇、白磁の肌・・・・・すべてが整っている姫がそこにはいた。
昌浩は胸が高鳴る思いがした。
「様」
「いいのよ、神楽。どうせ誰も見てないわ」
その姫の名がと知ったのはそのときである。ふと姫が昌浩のほうをむいた。昌浩と姫の視線が交差する。
姫は息を呑んだ。が、ちょうどそばにいた女房は別のほうを向いており気がついてはいない。姫は小さく微笑むと、早くお行きなさい、と口だけで言った。
昌浩はうなずくとその場をあとにした。しかし家に戻ってもその姫のことが頭から離れなかった。
そっと邸を抜け出し、あの姫宮の邸へと急ぐ。朝方までに戻れば平気だろうと思った。まぁ祖父の晴明は気がついているであろうが・・・・・
そのとき物の怪もそばにいた。無数の妖の存在を感じながらだ。
「・・・・・・やっぱり寝てるのかな・・・・・・・」
昌浩は少し残念そうに言った。
「やはり来たのね」
クスッと笑いを含んだ声が聞こえてきた。昌浩はその場で飛び上がる。暗がりの中には立っていた。
「いらっしゃい。大丈夫よ、今は誰もいないから。お茶でも飲んでいって」
姫は昌浩の背後にも目を向け、そしてうなずいた。
「いいの・・・・・・?」
「えぇ」
昌浩は姫の部屋へあがった。はお茶を出して昌浩をむかえた。
「私は。あなたは?」
「昌浩。安倍昌浩」
「昌浩、というのね。よろしく」
「こちらこそ」
は小さなお茶菓子を見えない物の怪にむかって昌浩に気がつかれないように投げた。小さな砂糖菓子だった。
「そういえば昌浩。あなた、今日邸を覗いていたわね」
「えと・・・・それは・・・・・・・」
「ふふっ、いいのよ。そういえば、笛を持っていたわね。是非聞かせて」
「でもオレ下手だから・・・・・・・」
「下手とか上手いとか関係ないわ。大丈夫、ここは本宮からは離れているから聞こえるはずないもの」
「・・・・・でも笛ないよ」
「じゃぁこれ使って」
は一本の横笛を昌浩に差し出した。
「兄上の形見なの。私は琴しかやらないからどうぞ」
「そんな・・・・・悪いよ」
「いいの」
は昌浩に笛を押し付けた。昌浩はしばしの逡巡ののちにそっと横笛を奏で始めた。
は笛の音にうっとりと聞き惚れるかのように目を閉じた。物の怪は彼女が泣いていることに気がつく。
「・・・・・?」
「あっごめんなさい。つい、ね・・・・・・兄上の音に似ていたから」
「そんなことないよ。俺、下手だし」
「ううん、下手だとかなんだとかは関係ないわ。昌浩の音、すごく優しいわ」
はそう言って微笑んだ。昌浩の頬が僅かに上気する。
「あら・・・もう少しで暁・・・・昌浩、戻らなくて平気?」
「あっ!!」
「また明日・・・よかったら来てね。気をつけて・・・・・・・・待ってるわ」
「うん!」
は昌浩の背を見送っていた。そして足元にいる物の怪を見ると微笑む。
「どうか気をつけて。彼のことをよろしくお願いします」
物の怪は軽く目を見張ったが、何も言わずに昌浩のあとを追った。はそっと目をふせる。
「・・・・・・晴明様、すみません・・・・私はきっと出会ってはいけない人に出会ってしまったのでしょう」
翌日もそれから何日も昌浩はのもとへ行った。は優しく昌浩を迎え入れ、時には琴を奏でてくれた。
そんな日が続いたある日のこと・・・・
「風が騒がしいね」
「さすがは昌浩ね。そんなことがわかるんだ」
「どういうこと?」
「きっといい陰陽師になれるってこと」
「でもオレ見鬼の才ないし・・・・・」
「安倍家の子ですもの。絶対昌浩は陰陽師になれるわ」
「うんわかった。頑張ってみるよ」
昌浩が笑顔でうなずいたそのときだった。御簾が大きくしなり外側からはじけた。
の顔が青ざめ、昌浩も絶句した。には見えていたのだ。黒い巨大な獣が自分を喰らおうとして、さらにいい獲物を見つけてしまったことを・・・・・
「昌浩、逃げて!!」
「えっ?」
「行って!早く!!」
「そんなも一緒に」
「ダメ・・・・・私と一緒にいたらあなたまでが・・・」
昌浩はの手を握って走り始めた。
「昌浩!!」
「置いて行けないよ。オレ、見鬼の才がなくても好きな人を・・・・・を守りたいって思ったから」
「昌浩・・・・・」
はギュっと昌浩の手を握り返した。
「安倍家のお邸へ行きましょう。昌浩」
「うん」
二人は人気のない大路を必死で走った。後ろから追いかけてくる化生はこの追いかけっこを楽しんでいるかのように追いついたり距離をとったりしている。
安倍家まであと少しのとき、が着物の裾につまづいて転げた。
「!」
「いた・・・」
転んだ時に足をくじいたのか、は立ち上がれそうもない。
「昌浩、行って」
「を置いていけないって!」
「お願い・・・昌浩」
「・・・・・」
「そして私と約束して。絶対に陰陽師になるって。お願い」
「・・・・・・するよ、だから逃げよう」
は微笑んで首を振った。は着物のあわせから横笛を取り出すとそれを昌浩の手に押し付けた。
「私だと思って大切にして。さぁ行って昌浩・・・・・」
「・・・・・」
「あなたに会えてよかった・・・・あなたを・・・・・・愛せてよかった。ありがとう、そして・・・・・さよなら」
はそう言って懐から取り出した符を昌浩の額に貼り付けた。昌浩は驚愕してを見つめる。体が動かないのだ。
はそっと微笑むと化生のほうへ歩き始めた。
「っ!!」
昌浩の声にもは応えず化生へ歩みを進める。やがてその前に立つと微笑んだ。
「私を殺せばその気持ちは収まりますね。殺しなさい。ただし昌浩には見えない方法で」
「、だめだっ!」
「・・・・・・・」
は化生とともに姿を消した。昌浩は呆然とする。
やがて晴明が神将たちとともに昌浩を探しに来た。
「姫が・・・・・・そうか」
晴明は物の怪から話を聞き、そして悲しげな瞳で昌浩を見た。その手の中にはしっかりと横笛が握られていたのだ。
「・・・・・・・・・姫はな、幼い頃から見鬼の才のせいで異形のものたちによく狙われておった。故にわしに彼女を守る結界を張るように頼んできたのじゃ。彼女自身にな」
「そうか・・・・・・」
物の怪は昌浩の眠る部屋の方向を見た。
一人の神将が昌浩が目を覚ましたと晴明は立ち上がって物の怪とともに昌浩の元へと向かう。
「昌浩や・・・」
「じい様・・・・・・オレ、とんでもないことを・・・」
「姫は前におっしゃっていた。小さな子供がしょぼしょぼと邸の前を通る。なんとなくだけれど晴明様のお孫様に見えた、とな」
「それで・・・・」
「あの子はきっといい陰陽師になる。だから・・・・・・・彼に陰陽の術を教えてあげて欲しいといわれた。昌浩、お前は陰陽師になるかの?」
「・・・・・」
「どうする?」
「なります。俺、絶対にじい様を越すほどの陰陽師になる。それがとの約束だから」
昌浩は横笛を見つめた。
から受け取った、彼女の形見。
辛い思い出もあったが、楽しい思い出のほうが圧倒的に多かった。
「なんだぁ、昌浩?そんなに笛を見つめちゃって」
「別になんだっていいだろ、もっくんには関係のないことだよ」
「あっもっくんいうな、晴明の孫」
「孫言うな」
彰子はクスクスと笑って二人のやり取りを見ていた。ふと顔をあげれば昌浩の背後に美しい姫が立っていた。
彰子はハッとするが、姫はそっと笑んで指を口元に持っていった。黙っていて欲しいのだろう。
「・・・・・・・・」
彰子は姫のすることを見ていた。
姫は背後から昌浩を抱きしめた。が、見鬼の才を持っているはずの昌浩も、物の怪も気がつかないままだ。姫は満足したのか、彰子に軽く頭をさげるとフッと姿を消した。
「彰子?どうしたの?」
「いいえ・・・・なんでもないわ。ねぇ昌浩。笛を吹いて。もう一度」
「うん」
ゆるやかに、柔らかい音色がこぼれだす。彰子は眼を閉じてその音に聞き惚れた。
あぁ、と思う。きっとさっきの姫はこの音色が好きだったのだと。
昌浩は蘭華のことを思い出した。
『、絶対にオレいい陰陽師になるから。だから・・・ずっと見ていてね』
ふとが微笑んだ気がした。