の二親は彼女が物心つく前に冥府の川を渡った。
それ以来安倍家に居候している。

さん」
「あっはい」

安倍家の庭に造られた庵で書物を読んでいたは露樹の声に顔をあげた。
今日は物忌みということで参内を控えている。

「昌浩の面倒を見てはもらえませんか。市に行きたいので」
「はい」

はうなずいて昌浩の部屋にむかった。
先日立って歩き始めることを覚えた昌浩は目を放すとすぐにどこかへ行ってしまう。
は昌浩から視線を外さないようにしながら、背後の神将と話していた。

「昌浩、大きくなったね」
≪あぁ≫
「あっ、昌浩・・・」

ふぎゃっという声が部屋の隅で聞こえた。
は小さな溜息をついた。部屋の隅にいたのはの式神二人である。今物の怪に似た姿になっている二人の尻尾を昌浩が踏みつけたのであった。

「あたー・・・・・・大丈夫?」
「大丈夫なわけ・・・・・っ」
"あるか・・・っ"

二匹とも尻尾が痛みで引き攣っているのか、ピンと立っていた。
は昌浩を抱きかかえながら、笑うまいと必死で口元を抑えている。

「笑いたければ笑え。ふんっ」
「ダメだよ・・・・・くっ」

神将が呆れたように溜息をつくのが感じられた。
それを感じたのか、式神の片方―螢斗が神将のいるであろうほうに目を向けた。

「ならお前も踏まれてみろっ」
≪昌浩は軽いからな。別に感じないだろう≫
"物の怪の姿になればわかる。なれ、今すぐになれ"

は式神たちの言葉を聞きながら苦笑した。
なんだか祖父の篁にそっくりだ。口調が。

「おや」

は目をこする昌浩の顔をのぞきこんだ。

「そろそろおねむの時間かな?」

昌浩はこくこくと船をこぐ。額に手を当てれば少し熱い。
はそっと昌浩を褥に横たわらせた。

「ゆっくりお眠り・・・・そしてもっともっと大きく・・・晴明を越す・・」

昌浩が寝ると同時にもすぅと寝息を立ててしまった。
見れば、螢斗も翡乃斗も姿が見えない。穏形していた神将は仕方なく、昌浩が動かぬよう紐で軽く柱とつなげておき、顕現してを抱き上げた。
の部屋で褥に寝かせ、神将はそのまま穏形した。

"おや・・・・眠っているのか"
「子守をしながら自分も寝てしまうとはな」

式神たちが戻ってきてもはいっこうに目を覚まそうとはしなかった。
露樹は小さな寝息を立てるを見て困ったような顔をした。そこへ晴明がやって来る。

「どうした」
「あぁ義父上・・・実はにいつも昌浩の面倒を見てもらっているので、そのお礼にと翡翠の飾りを買ってきたのですが、起こすのも可哀想なので・・・・・・」

晴明は露樹の隣から顔をのぞかせる。
と、その枕元で式神が寝ている。連日仕事が多いから疲れているのだろう。

「わしが渡しておこう。に話もあったしの」
「すみません」

露樹から飾りを受け取った。
翡翠の小さな玉が編まれた紐のところどころについているものである。

「あとでよかろう」

晴明はそこから立ち去ると自室に戻って騰蛇を呼んだ。

「なんだ」
「すまんが、紅蓮・・・・これをに渡しておいてはもらえんか」
「なんでオレが」
「まぁいいから。は庵で寝ているだろうから、できるだけ早めにな」

晴明に部屋を追い出され、騰蛇は仕方なく、の庵へとむかう。
はまだ寝ていた。式神たちの気配はない。

、起きろ」
「ん・・・」 

騰蛇はを揺り動かす。
僅かに顔をしかめたではあるが、またすぅっと寝入ってしまう。
騰蛇は小さく溜息をついて、のそばに座った。

「んぅ・・・・」

不満そうに眉がひそめられたかと思うとが起き上がった。ぽやんとした焦点の合っていない瞳が騰蛇をむく。

「騰・・・」
「やっと起きたか。これ、露樹からお前にだそうだ」
「・・・・・・・・ありがと」
「オレは戻る」
「あっ、ねぇ騰蛇。月見しよう!」
「はぁ?」

突発的とはまさにこのことであろうか。は起き上がると、露樹の元にかけていってしまう。無論、騰蛇に金縛りの術をかけることを忘れずに。

「とぉだっ!飲もう」
「お前、酒飲めるのか?」
「うん、強いよ?だって育ての親がね、ざるだし」

溜息をついた騰蛇ではあったが、に外へ半ば強引に連れ出され、一緒に酒を飲むことになってしまった。
は酒を飲みながら、月を見上げる。騰蛇から見えるその横顔は憂いに染まっていた。

「私、騰蛇のこと結構好きだよ。青龍がなんと言ったってね」
・・・」
「ねぇ騰蛇。あなたはもう傷つかなくてもいいんじゃないかな」
?」
「晴明のこと・・・もう、あなたが気に病む必要はないんだと思うよ」
「だが、オレは・・・」
「あのね、確かに騰蛇は強い力を持ってる。その炎はすべてを焼き尽くしてしまう。でもこう考えたらどうかな。あなたが持つ焔は大切な人を守るためにあるんだ、って。今までは晴明だよね、これからは昌浩だ」

はそう言って笑うと、騰蛇の肩に頭を乗せた。

「私は騰蛇を信じているよ。あなたは、自分からは絶対に主を傷つけない。今までも、これからも」
・・」

は騰蛇を見てにこっと笑った。

「私は信じているから」
「・・・・・は、本当、おれを救い上げてくれるな」
「えっ?」

は怪訝そうに騰蛇をみた。騰蛇はその顔に小さな笑みを浮かべてを見た。

「一度しか言わないからちゃんと聞いておけよ?」
「う、うん」
「お前におれの名を呼ぶ権利をやろう。"紅蓮"と」
「えっでもそれ晴明と昌浩以外は呼んじゃいけないんじゃ」
「いい。お前なら、オレを信じていると言ったお前になら、呼ばれたい」

はしばらく拍子抜けてしまった。何もいえないのは何故だろう。
それはきっと騰蛇がいつもの騰蛇らしくないから。ぱかっと口を開いたまま固まっているを見た騰蛇は不思議そうに首をかしげた。

「何か変なことでも言ったか?」
「とっても・・・・・・・だって騰蛇がとっても大切にしている名前を私に呼んでもいいって言ったのよ?そんなこと、青龍でもありえないのに」

騰蛇は心内で、忘れているのか、と思った。昔、青龍がに二つ名を呼ぶことを許したことがあるのである。
本人は完全に忘却の彼方へ追い込んでいるらしい。

「・・・・私は呼ばない」
「ぇ・・・・」
「私までが"紅蓮"の名を呼んだら"騰蛇"がかわいそうじゃない」
、なんで・・・・」
「"紅蓮"も"騰蛇"も同じじゃない。どちらもあなたなんだよ」

はそう言って酒をあおった。
僅かに頬が紅に染まる。

「私も二つの名を持っているけど、どっちかだけってのはないのよね。私は小野であって橘でもある。どっちも私よ。騰蛇、私はその申し出を受けられないわ」

の言葉に騰蛇は手元の酒を見た。丸い月が揺らめいている。

「わかった。でも、おれは名を呼ぶことを許した。いつか、呼んでくれ」
「うん、考えておくね」
「・・・・・・・あぁ」

二人は微笑を交し合うと、酒をあおる。
月が真珠色の光を二人に投げかけていた。